2014年2月18日火曜日

「母からの手紙」 スキージャンプ葛西選手

自分を支えてくれる人たちの
存在が大きかったですね。


実は、94年のリレハンメル五輪の前年に、
妹が再生不良性貧血という重病に
かかりましてね。


辛い治療を何度も受けたり
ドナー探しで大変だったんです。


妹のためにもぜひ金を取りたい
と思っていたんですが
銀に終わってしまった。


でも、妹は病気をおして
千歳空港まで迎えに来てくれましてね。


誰にも触らせずにおいたメダルを、
1番に触らせてあげたんです。
元気になってくれ、という気持ちを
込めましてね。


――喜ばれたでしょうね。


「ありがとう。次は金だよ」って
逆に励まされました。


病気の妹に比べれば、
自分は何も辛いことはない。


そんな妹を支えに、98年の長野五輪へ
向けて気持ちを奮い立たせました。


ところが94年の11月、
ある大会で転倒して鎖骨を折り、
しばらく跳べない状態が続いたんです。


翌年の5月頃、
ようやく完治して、
私はブランクを埋めるために
それまで以上に猛練習に励みました。


通常なら300本跳べば十分といわれる夏に、
900本跳んで再起を賭けたんです。


――通常の3倍の猛練習を。


しかし、それが逆に災いして、
その冬のシーズンで今度は
着地の時に足を骨折して
しまったんです。


普通に着地したんですが、
その途端にコリッと。


練習のし過ぎで、腰や股関節に
負担をかけ過ぎたのが原因でした。


それから1年半くらい
記録と遠ざかっていたんですが、
そんな折に実家が放火に遭いましてね。


母が全身火傷で病院に
担ぎ込まれたのです。


――ああ、お母様が全身火傷に……。


なんとか一命は取り留めたんですが、
火傷は全身の70%にも及んでいて、
炎の熱で肺も気管も焼けていました。


何度も皮膚移植を繰り返したんですが、
結局97年の5月に亡くなりました。

後から入院中に母の書いた
日記が出てきましてね。


それを開くといまでも
ポロポロと涙が出てくるんです。


ああ、辛かったんだろうなあって…。 


貧乏と闘いながら
必死で働いて僕たちを育て、
ジャンプまでやらせてくれた母には、
いくら感謝をしてもし足りません。


金メダルを取って家を建ててあげる
約束を果たせなかったのが、
本当に残念で……。


入院中の母は、もう手も握れないくらい
ひどい状態でした。


痛みは絶えず襲ってくるし、
死の恐怖と必死に闘っていた。


そんな中で、不調な僕を気に掛けて、
励ましの手紙を送ってくれたんです。


――そこに書かれていたことは。


「いまこの時を頑張れ。
 絶対におまえは世界一になれる。
 お前がどん底から這い上がってくるのを
 楽しみに待っているよ。」と。


いまでも大事な大会の前には
この手紙を読み返します。


見るたびにものすごく
大きな力をもらえるんです。

http://archive.mag2.com/0000192277/20140127080000000.html

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